誰もが憧れる、華やかなプロスポーツ選手。
しかし成功するのはごく一部で、たとえ成功したとしても引退後に苦労するケースが少なくありません。
そのため、スポーツに賭けるかどうかを迷ったり、スポーツの道に進むことを親に反対されたりするアスリートが多いのが現状です。
今回は、Jリーグからのオファーを受けながらもケガでプロを断念し、現在はシリコンバレーでエンジニアとして働く酒井潤さんにインタビュー。エンジニアを選んだ理由やアスリートのセカンドキャリアの考え方についてじっくりお話を伺いました。

セカンドキャリアを具体的に考えたのは、大学1年で大ケガをしたときだった

最初にご経歴からお聞きし、話の中で「エンジニアを選んだ理由」と今回のお題である「アスリートのセカンドキャリア」について伺えればと思います。

わかりました。エンジニアになるまでが結構長いですが・・・笑。

よろしくお願いします!まずは、サッカーを始めてから、引退するまでの流れを教えていただけますか?

出身地の千葉はサッカーが盛んだったので、小学生のときになんとなく始めた感じですね。
高校、大学へはスポーツ推薦で進学しました。

ケガ等で挫折するリスクを想定して、スポーツ推薦での進学に反対される親御さんもいると聞きます。
酒井さんのご家庭はどうでしたか?

母親は好きなようにすればいいという感じでしたが、公務員だった父親は反対でしたね。
高校は偏差値の高い渋幕(渋谷教育学園幕張高等学校)に自宅から通えるということで、なんとか許してもらったという感じです。大学に入ってからも、「サッカーはいつやめるんだ」と言われていました。


全日本に選ばれるレベルのアスリートの親御さんでも、将来を心配されるんですね。
酒井さん自身はサッカー漬けの生活だったかと思いますが、セカンドキャリアについて考えることはありましたか?

大学1年生のときに、膝の靭帯断裂する大ケガをして…。セカンドキャリアを具体的に考え始めたのはその頃からですね。
不動産の営業、大学で図書館司書の資格を取る、大型免許を取ってトラック運転手になるなど、かなり考えました。

そのケガからは、復帰されたんですよね?

はい。復帰後に、大学全日本にも選ばれましたし、Jリーグからのオファーもありました。
なので、いったんプロに進むという選択肢もあったのですが、大学まででサッカーを辞める決断をしたんです。

オファーがあるということは、可能性があると判断できますよね?そこに賭けようとは思わなかったのでしょうか?

ケガ以降、思い通りのプレーができていない実感があったんです。大学日本代表として国際大会に出場した際、対戦相手のイタリアにいたアントニオ・カッサーノの身体能力にも衝撃を受けました。
自分はプロにはなれるだろうけど、大成しないだろうと感じたのでオファーを断ったんです。

ケガさえなければプロに進んでいたでしょうけどね。今あらためて想像してみても、ケガがなければオファーを受けただろうと思います。

プロへの道が開けているだけに、苦渋の決断ですね。
その後、大学を卒業して大学院へ進学されたと伺っていますが、同志社大学の体育会系サッカー部なら、営業職などで大手企業に行く方も多かったのではないですか?

当時は同志社のスポーツ推薦では神学部しか選べなかったんですが、神学部では商学部や経済学部学生には勝てないだろう、サッカーしかできない人間ではダメだろう、と考えたんです。
それで教授にも相談して大学院に、という結論になりました。
「これからは英語とIT」、教授のアドバイスで北陸先端科学技術大学院へ

セカンドキャリアではサッカー以外の道へ進もう、と考えたときに、IT系に進まれたのはどうしてでしょう?
しかも大学院となると、ハードルが高いと感じてしまいそうです。

神学部の教授が、「これからは英語とITだ」とアドバイスしてくれたんです。
もともと数学だけは得意だったのですが、調べてみると数学とIT(情報系)の親和性は高そうだったし、文系でも受けられる大学院もあるようだったので目指すことにしました。

目指すといっても、どうやって…?

興味のある大学院の教授を訪ねて、学生さんを紹介してもらいました。ゼミの雰囲気もわかるし、受験の情報をもらったり、受験に必要な研究発表のアドバイスをもらったり…。
文系でも受験できるとはいえ、研究発表となるとさすがに短期間の独学では厳しいですからね。


知らない環境に飛び込んでいく行動力、すごいですね。
30〜40代ならともかく、20代前半で積極的に目上の人に頼るという発想にはならないと思うのですが、何かきっかけがあったんでしょうか。

サッカー少年時代の経験が大きいと思います。
同じレベルの同級生とサッカーしてるより、上級生とやるほうが上達が早いじゃないですか。先輩に混じって、教えてもらったり情報をもらったりするほうが得だということに、早い段階で気づけていたんです。それはとてもラッキーなことだったと思っています。

物怖じしない性格だったんですか?

子ども時代はそんなに積極的なタイプでもなかったと思います。
でもなぜか、そういうのは平気でしたね。たまに断られても凹まなかったし。

年上の方との交流に抵抗感がないんですね。小さい頃の周囲の環境も関係しているのでしょうか?

5歳上の姉がいたこともあり、姉の友達にもよくかわいがってもらっていました。
年上の人に対しては「よくしてくれる相手」というポジティブなイメージを持っていたのかもしれません。

実際に大学院に入られて、いかがでしたか?サッカー漬けの生活からインドアな研究室生活、大きな変化ですよね。

全然違いました。生活がインドアなだけではなく、性格が内向的な人も多くて。隣の席にいるのにメッセンジャーで話しかけられたり……。
サッカーをやっていた自分はどうしても「キラキラした人」と見られますしね。でも、こちらが彼らが好きな趣味とかに興味を持つと、めちゃめちゃ親切にしてくれたし、すぐに仲良くなれました。

自分が好きなことに興味を持ってくれると嬉しいですもんね。同じ趣味にハマれましたか?

趣味としてはそこまでハマれませんでしたが、一緒に過ごして話を聞くのは楽しかったですよ。
これぞと思う対象にのめり込むスイッチは、アスリートに共通する面もあるなと思いました。

意外な共通点!サッカーは、趣味で続けられたんでしょうか?

1年目はとにかく勉強で、サッカーどころか気分転換するヒマもなかったです。
研究室に寝袋を持ち込んで、3〜4時間睡眠で。人生、あんなに勉強した時間はなかったと思います。

アスリートだったことは、必死に勉強するうえで役に立ちましたか?

普通の人は、疲れると休みますよね。
でもアスリートって、「つらいけど、まだがんばれる。あとちょっとがんばったら、限界を超えられる!」というマインドなんです。あの状況で勉強をがんばれたのは、サッカーで培われたマインドがあったからだと思います。

スポーツをしていて人より体力があるというのも大きかったですね。人の倍勉強する体力があったので、入学時の差はだんだん縮まっていきました。

NTTドコモに就職するも、2年でIT世界最先端のシリコンバレーへ。

大学院卒業後、就職されたのはNTTドコモですね。サッカーは関係なく、一大学院生として就職されたんでしょうか?

そうです。
ただ、大学まで本格的にサッカーをやっていたというキャリアを人事の方が気に入ってくださったのは事実なので、サッカーがまったく無関係だったわけでもありませんが。

ドコモに入社ってすごいですね。成績優秀だったんですか?

自分が勉強を始めたのは大学院に入ってからなので、もっと優秀な人はたくさんいました。
でも、単位の取り方やテストの情報を集めるのは得意だったので、成績という意味ではけっこういい方でしたね。

常に情報収集なんですね、さすが!でも、2年ほどで退職されていますよね。最初から独立は視野に入っていたんでしょうか?

ドコモでは最初からプロジェクトマネージャー的な立ち位置を求められたのですが、そもそもそれが自分のやりたいこととは違っていたんですよね。

プログラミングや環境構築といった仕事でエンジニアとしてスキルアップしたかったので、上司に頼んで協力会社のプロジェクトチームに入れてもらいました。
でもやっぱり、「いつまでやってるんだ」と言われますし。早すぎる転職は不利になるので2年は勤めるつもりでしたが、転職は早い段階から視野に入れていました。


でも、そこでなぜ海外に?

アメリカや台湾の会社との共同プロジェクトにいたとき、ドコモだけが通訳付きだったんです。しかも、ITの専門家ではない通訳さんが誤訳しても誰も気付かない。
日本は英語やITのレベルが低いことへの危機感が薄いと感じ、海外へ行こうと思ったんです。

それで、ハワイで起業を?

ビザのためでもありましたが、株式会社を作りたいという狙いもありました。
起業しても、“株式会社の社長”でないと経営者として相手にされないからです。でも当時の日本は株式会社を作るのに資本金1000万円が必要だったので、ハワイで株式会社を立ち上げ(約10万円)、日本支社を作るという形にしました。

その発想は斬新ですね!

起業をお手伝いしてくださった代理人の方に経営者の方々を紹介していただいたんですが、みなさん面白がって、かわいがってくださいましたよ。
40代の今だとまた違うでしょうが、当時は20代だったこともあって、いろんなアドバイスをくださいました。

先輩にお話を聞く姿勢、ここでも健在ですね。
そういえば神学部の教授のアドバイスは「英語とIT」でしたね。シリコンバレーの会社に就職を決めた時点では、どれくらいの英語力だったんでしょうか?

TOEICで500点くらいです。

え、500点!?それでシリコンバレーで働けるんですか?

さすがに現地法人では厳しいです。英語力が足りないので、シリコンバレーにある日本法人に絞って転職活動をしていました。
社長が日本人で、日本人スタッフのいる職場です。日本にいるより、さっさとアメリカに渡って英語を磨くほうが効率がいいと判断したんです。

転職を経て、今は永住権(グリーンカード)をもっていらっしゃるんですよね。永住権の取得は、難しいのですか?

日本人は不法滞在も少なく信頼されているので、就労ビザさえ取れれば、永住権は比較的取りやすいですよ。
情報不足で諦めてほしくない――次世代に向けて発信する理由


酒井さんは『シリコンバレー発 スキルの掛け算で年収が増える 複業の思考法』の本も出版され、YouTube発信やUdemyの講師もされていますよね。
エンジニアとして働くだけでなく、発信に注力されている理由はあるんですか?

自分はもともと、エンジニアになりたかったわけではありません。サッカーからキャリアチェンジするにあたり、自分にできそうな稼げる道を選んだ結果です。
いまはアメリカで給与ランキング4位のSplunk Inc(スプランク)に勤めていますが、自分としてはエンジニアとしてのキャリアに満足している部分があるんです。

エンジニアとしてもっと高みを目指すなら、GoogleやAppleに転職するために努力すればいいし、やろうと思えばできる自信もあります。
でも、そのために時間を割くよりも、海外を目指す次世代に向けて発信したいんですよ。

そういえば、ハワイに移住されるとか。エンジニアは続けられるんですか?

フルリモートで続ける予定です。
エンジニアとして上を目指すならシリコンバレーにいるほうがいいのですが、さっきも言ったように、エンジニアのキャリアにはある程度満足したし、生活のために必死で働く必要がないくらいには余裕ができました。
ハワイでエンジニアをしながら、QOLも追求した生活をしたいなと思っています。

【取材後記】
文武両道の華やかなキャリアを築いている酒井さん。
お話を聞いていると、人生の岐路に立つたびに徹底的に情報収集して"ちょっと難しい道"を選び、スキルが伸びやすい環境に身をおく努力をされてきたことがよくわかります。
堅実さと挑戦のバランスの良さが、現在の成功につながっているように感じました。
後編では「アスリートとエンジニアの親和性」についても語っていただきます。公開をお楽しみに!
【関連リンク】
公式サイト:https://sakaijunsoccer.appspot.com/
Udemy:https://www.udemy.com/user/jun-sakai/
YouTube:https://www.youtube.com/channel/UCqRPKFts1Puj6Wn7U4e3ppA
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