2022年4月、日本政府は「量子未来社会ビジョン」を発表し、量子技術により目指すべき社会のあり方や、その実現に向けた戦略を明らかにしました。官民連携で技術の研究や開発が進んでいる最中ですが、一方で諸外国と比べると日本の取り組みは遅れているという指摘もなされています。
そこで、今回は一般社団法人量子技術による新産業創出協議会(Q-STAR)で、人材育成ワーキンググループのサブリーダーを務める安藤 悠太 氏(株式会社スキルアップNeXt)にインタビューを実施。日本における量子コンピュータ研究開発の実態や、今後の可能性について伺いました。
一般社団法人量子技術による新産業創出協議会(Q-STAR)
代表理事:島田 太郎(株式会社東芝 代表執行役社長 CEO) 設立:2022年5月9日 事業概要:量子技術の応用を通じた中長期的な新産業を創出するために、産業および企業の枠を超え、グローバルな視点での活動を推進する団体。主に「量子技術の動向に関する調査・研究」や、「量子技術の産業活用に関する調査・研究・提案」、「量子関連人材に関する調査・企画・提案」などの役割を担っている。
量子コンピュータの“正解”はまだ存在しない
安藤さんが所属する「一般社団法人量子技術による新産業創出協議会」とはどのような組織なのですか?
量子技術の産業活用を推進する団体で、2023年9月現在、約80社の企業がスタートアップから大手まで会員として所属しています。経済産業省、文部科学省、内閣府がオブザーバーとなり、産官学一体で量子技術の発展や社会実装に向けて活動している点が特徴です。 そのなかで私は「人材育成ワーキンググループ」に所属し、量子関連人材の育成に関する調査や企画などを担当しています。
まさに量子技術の将来に向けた取り組みを推進している団体なのですね。そもそも「量子コンピュータ」とは何か、具体的に教えていただけますか?
スーパーコンピュータを含む古典コンピュータ、いわゆる従来のコンピュータは情報を「0か1」の2通りで表していました。つまり古典コンピュータの内部では、情報は「0か1」いずれか1つの状態を取ることのできる「古典ビット」で表現されていたわけです。
一方で量子コンピュータでは、情報は「0と1」両方の状態を同時に取ることのできる「量子ビット」で表されます。「量子の重ね合わせ」というものです。 量子ビットは2n通りの状態を同時に持っているのですが、これをユニタリ行列という形で表し、量子アルゴリズムによって計算することで高速化を実現するのが量子コンピュータとなります。
とはいえ、量子コンピュータはまだ開発中で、現段階でハードウェア技術や実装パターンが確立しているわけではありません。量子の振る舞いを利用するということには変わりありませんが、その具体的な手法には「超電導回路方式」「イオン方式」「半導体方式」「光方式」などさまざまなパターンがあります。それぞれの手法にメリット・デメリットがあり、“正解”が存在しないため、今はいくつかの企業が中心となって研究を進めている段階ですね。
なるほど。ということは、まだ本格的な実用化には至っていないということなのでしょうか。
はい。今のスーパーコンピュータと同じ計算ができるようになるためには、およそ10万から100万量子ビットが必要と言われているのですが、現在は数十から数百量子ビットとなっています。なので、現段階では皆さんが期待しているようなレベルでの実用化には耐えない状態ですね。
世界的に、いつごろから量子コンピュータの研究が始まったのでしょうか?
研究自体は1980年代から始まっています。ただ、やはり当時の技術では難しかったことと、古典コンピュータを開発することが優先されたため、本格的な量子コンピュータの研究は後手に回りました。一般的に「ムーアの法則」に示されるとおり、半導体のチップの性能が上がるにつれ、コンピュータの精度も上がっていきます。その結果、小さくて性能の高い古典コンピュータがどんどん生み出されるものの、チップの小型化にはやがて限界が訪れる。そのような理由からも、量子コンピュータへの期待が高まっていると言えます。
「得意分野」で量子コンピュータを活用するメリット
量子コンピュータだからこそ実現できることや、量子コンピュータならではのメリットは?
たとえば自動運転の例が分かりやすいかと思います。現在、自動運転バスはレベル3(高速道路など一定の条件下で自動運転できる状態)で定常運行されています。ただ、バスは決まったルートを走りますが、何台もの乗用車がそれぞれバラバラの目的地を目指すと仮定した場合、「道路Aと道路Bは渋滞している」「道路Cは空いているから、Dの車は通過したほうがよくて、Eは曲がったほうがよい」といったことを、すべての車で同期して行う必要が出てきます。このようなケースでは、量子コンピュータによる計算が大きな力を発揮します。
なるほど、古典コンピュータが苦手とする計算ができるということなんですね。
はい。今お話ししたような、「最適化問題」については量子コンピュータが得意であることが分かっています。一度の演算で複数の組み合わせを計算したりすることに適していますね。 反面、その他の大半の問題に関しては、まだスーパーコンピュータを超えることができていない状況です。
昨今の報道などで、「スーパーコンピュータで1万年かかる計算が、量子コンピュータでは3分20秒でできた」などといった話題を目にします。そうした報告を聞くと、量子コンピュータの技術もかなり進んでいるのではと思ってしまうのですが。
たしかにそのようなデータは出ていますが、あくまで量子コンピュータが得意な領域で競わせた際の実験結果です。またスーパーコンピュータの性能も日々進化していますので、量子コンピュータのほうが上だという科学的な証明はまだできていないんですよ。
研究開発で後れをとる日本にも、挽回のチャンスがある
今後の展開として、量子コンピュータをどのように活用していくイメージになるのでしょうか。
政府の方針では、「量子未来社会ビジョン」に示されているとおり、産業や生活などさまざまな場面での活用が想定されています。でも、いきなりすべてを量子コンピュータに置き換えるというよりも、スーパーコンピュータと併用し、それぞれが得意な領域で役割分担をしていく使用法になるのではないかと思います。現状のコンピュータでストレスなくできている計算を、あえて量子コンピュータに置き換える必要はないわけですよね。一連の処理工程のなかで、特定の部分を量子コンピュータに切り替えていくという使い方が現実的なのではないでしょうか。
実際、スーパーコンピュータと量子コンピュータはそもそもの基盤が異なります。計算方式も異なりますので、スーパーコンピュータで計算した結果をそのまま量子コンピュータに連携できるというものではないんです。つまり双方に計算結果の翻訳が必要となるのですが、それを実現するのは簡単な技術ではありません。
だからこそ、どうしても大規模に高速で行わなければならない処理や、最適化問題などに関しては量子コンピュータに接続し計算をさせて、スーパーコンピュータに処理を返してもらう。そのような技術の共存を通して、国内産業の成長や社会課題の解決を促す。その結果、私たちの生活がますます便利に、豊かになっていく。そんな循環を生み出そうという考え方が、政府の「量子未来ビジョン」にて提唱されている内容です。
実現できれば日本経済にも大きなメリットをもたらしそうですね。
そうですね。コンピュータでは「誤り訂正」という概念があります。簡単に言うと、データのエラーを訂正する技術のことですが、誤り訂正を適用する前の量子コンピュータは「NISQ(ニスク)マシン」と呼ばれています。 まずはNISQの状態、すなわち“誤り訂正機能は備えていないが、実用に耐えうるレベル”を開発していこうというのが現在の動きで、10~20年程度で実現できるのではないかと予測されています。さらに50年後くらいには、誤り訂正が可能でエラーのない量子コンピュータができるだろうと言われています。
やはり結構な時間がかかるのですね。
量子は波の性質を持っています。ゆらゆら揺れているものが何個も組み合わさっている状態で、どこかの波の波形が崩れたら、他の波の波形にも影響を与えてしまう。だから、誤り訂正に必要な計算量が膨大になってしまうんです。そして量子そのもの自体、人間がコントロールするのが難しいという問題もあります。扱いが難しい量子をコントロールして、誤り訂正を計算できる状態を目指していくことが今後の課題です。
いかに量子をコントロールするかということを、今たくさんの人たちが研究している状況なのですね。ちなみに日本の量子技術研究は海外よりも遅れているという話を聞いたことがありますが、その点についてはいかがですか?
やはり莫大な予算がかかる研究開発ですから、国力に左右される部分が大きいでしょう。また、1980年代は日本が半導体分野で世界トップを走っていて、古典コンピュータの時代に世界で活躍した実績があるわけです。やはり古典コンピュータが売れている間は、それをさらに良いものにすることに力を注ぎますので、時代の流れに出遅れてしまった部分があると思います。
でも、挽回のチャンスも充分にあると思っていて。先ほどお伝えしたように、量子コンピュータの“正解”はまだどの国も見つけられていない状況です。これから先日本でも研究開発が進み、「量子コンピュータはこれだ」というものを確立できたなら、一発逆転も大いにあり得ると考えています。
また、政府としては「疑似量子コンピュータ」「量子インスパイア―ドマシン」といった量子コンピュータの計算方法を古典コンピュータにやらせる技術も広く量子コンピューティング技術として捉え、早い段階での社会実装を目指しています。この分野は世界的に見ても日本が力を入れている分野になっていますので、取り組んでいる企業も多いです。
量子コンピュータに対する知見を深めるためには
安藤さんはQ-STARで人材育成ワーキンググループをリードしているとのことですが、量子コンピュータに関する仕事に就きたいと考えている人たちは、どのようなスキルを身に付ける必要があると思いますか?
量子コンピュータの「開発」に関わりたいのであれば、物理学の知識とエンジニアリングの知識が必須です。また、量子コンピュータを「使う仕事」をしたいのであれば、量子コンピュータの仕組みについて理解する必要がありますので、やはり物理学と数学、またコンピュータを操るためのプログラミングを学んでいただく必要があります。
あと、まずは量子コンピュータに触れてみたいということであれば、「アニーリング」について学んでみると良いかもしれません。量子の振る舞いを利用し、最適化問題を解くことだけに特化したコンピュータを量子アニーリングマシンと呼び、既に実用化されています。
先ほど挙げた「疑似量子コンピュータ」「量子インスパイア―ドマシン」であれば、今まで普通のコンピュータを使っていた方や、ソフトウェアを作っていた方にも馴染みやすいと思いますので、ファーストステップとして取り組んでみていただきたいですね。
量子技術に関するスキル標準なども整備され、今後はさらに量子コンピュータが身近なものになっていきそうですね。これからが楽しみですね。
そうですね。例えば先ほどもお話した自動運転車や、新素材開発や創薬などの場面で量子コンピュータが活用され、瞬時に最適な提案がなされたり、開発スピードが上がるなどの形で、私たちの生活に量子技術が取り入れられる日が訪れるはずです。 現在普及しているパソコンも、昔は一部の趣味の人たち向けに、高価な商品として提供されているイメージでした。量子コンピュータも同様に、全家庭に普及するというよりも、まずは産業界や特定のニーズを持った個人の方を中心に使われていくのではないかと思いますね。
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